特集:江戸時代を考える
      《その1》

2008.03.20
担当:tr

 『江戸のリサイクル事情』などが話題になっています。今日の拝金主義隆盛への批判からも、江戸時代を見直そうという機運があります。
 そこでちょっと調べてみたところ、事実についての間違い、認識における偏見などがいろいろあったので、一文を起こすことにしました。
 その1は基本情報から。

《基本情報》
 江戸時代というのは、ベースになる事柄を数字で把握しようとすると結構難しい。200年以上続いた時代ですから、『どの時点で』ということでもかなり違ってきてしまいますし、数字そのものの信頼性もまちまちです。例えば幕府による人口調査は1721年に始まり、幕末まで6年に一度行われましたが、毎回統一性が無く、武家・公家・寺社がが入っていたりいなかったり、カウントする対象年齢が違ったりといったことが指摘されています。また、武士の人口というのはそもそも機密に属することで現存する資料が乏しく、推定にならざるを得ないそうです。
 農業生産力を示す石高なども、表と裏があったり、他の作物を米に換算して表示していたりなどで、実はかなり裕福でも表向きの石高は低い、などというのも常識です。
 というわけで、出典を明記できる資料から取ったデータ以外は、good guessでご案内することをお許しください。

1.時期
 江戸時代は、歴史教科書的には1603年の江戸幕府開設から1867年の大政奉還までのことを指しますが、時代としてその特徴を語るについては、17世紀中ごろから19世紀中ごろまでの200年あまりと考えて進めたいと思います。特に19世紀の中ごろ以降になると、世情が騒然となり、物価も暴騰したり、という特殊な状況になってきます。私見では『幕末時代』という別の括りにした方がいいと思うくらいです。

2.人口
 江戸時代初期には1,200万人、18世紀前半にはほぼ3,000万人に達しましたが、その後19世紀中ごろまで横ばいだったようです。
 これを構成要素別にすると、武士5%、町人15%、百姓80%というような構成になります。ただし、この構成比は諸説で±5%くらいの差がありますし、200年の中のどの時点かということも考慮する必要があるようです。
 興味深いのは、200年間の増減を地域(国)別に見た場合で、人口が増加している地域もあれば減少している地域もあることです。そして、その増減は石高の増減に必ずしもリンクしていません。
 
別表にいくつかの地域の人口増減を示します。

 都市部の人口については、ご存知の方も多いと思いますが、江戸は当時世界最大の都市で、17世紀中ごろで約100万人、19世紀中ごろで約120万人の人口がありました。ちなみに、18〜19世紀ごろのロンドンの人口は80万人、パリは50万人と言われています。
 ただし、江戸の人口が100万人と言っても、3,000万人分の100万人ですから、現在の首都圏が約3,000万人ということを考えれば、それとは比較にならないほど人口は分散していました。別の言い方をすれば、現在の首都圏の人口集中がどれほど凄まじいかが分かると思います。
 江戸に続いて、大阪が約50万人、京都が約40万人といずれも大都市でしたが、それ以下ですと名古屋・金沢で10万人くらいでしょうか。
 これも、200年のどの時点ということで違うと思います。大阪では、17世紀中ごろ35万人ほどだった人口が18世紀中ごろに50万人ほどになりますが、それ以降幕末に向けて減少し35万人ほどに戻ります。

3.経済成長
 もちろん豊不作の変動はありますが、江戸時代全体をならすと、GDP伸び率は年率約0.3%、同時代(産業革命が広まる直前まで)の西欧社会とそれほど変わらなかったと思われます。よって、200年を通じて約2.5倍。このデータは、オランダGroningen大学の Angus Maddison教授らの研究をもとにしました。

4.物価
 物価については、まとまった情報としていくつかの記述がありますが、資料によってかなりばらつきがあります。例えば、池波正太郎の『鬼平犯科帳』のなかでも、江戸の庶民が1年楽に暮らせる金額として、10両と言ってみたり20両と言ってみたり、という混乱が見られます。200年間のどの時点を取るかによっても変わってくるでしょう。いつの時点のものかが示されていない情報にはあまり意味がないと思います。
 まとまったものとして、よく引き合いに出されるものに『文政年間漫録』の記述があり、
米一升 一五〇文
酒一升 二〇〇文
 ・
 ・
 ・
床屋料金   三二文
家賃(裏長屋) 六〇〇文

というように紹介されています。たしかにそういう記述はあるのでしょうが、これはあくまで文政年間(1818〜1829年)のことで、貨幣改悪が繰り返されそろそろ幕末へ向けて物価暴騰の足音が忍び寄りつつあった時期であることをお忘れなく。
 物価が200年間でどのくらい変動したか、ということのほうが重要ではないでしょうか。いろいろな資料から、当たらずといえども遠からずのところを言うと、約3〜5倍ほどになったようです。職人の賃金はこの期間で5倍くらいになりました。
重要なのは米の値段で、武士の俸給が石(こく)、俵(ひょう)という米の単位で表されていました。したがって武士は、米を自家消費する分以外は(あるいはそれも含めて全部を)換金しなければなりません。ゆえに米の価格というときは、だれがだれに売ったときの価格かで、ずいぶん違ってくることに注意が必要です。そこで、
大阪で商人が大量取引する場合:
          17世紀中ごろ   幕末の急騰直前
          銀40〜60匁/石 →  60〜90匁/石
江戸で小売する場合:
           40〜50文/升 →  120〜130文/升

というように推測します。
 江戸時代200年間を通じて幕府を悩ませた問題に『米価安の諸色高』というのがあります。諸物価は値上がりするのに米の値段は上がらない、という意味で、武士の収入はこれによって由々しき事態となりました。
 しかし、上記の推測から見る限り、値が上がらないのは売値であって、買値の方は諸物価の平均に合わせて上昇していたのではないかと思われます。こんなところ(商工業による付加価値の重要性増大)にも幕府体制がほころびた一因が覗いているようです。

5.貨幣制度
 江戸時代の通貨の単位はちょっと複雑で、金(主に東日本)、銀(主に西日本)、銭の3つが流通しましたが、これら相互の交換レートというのが変動しました。
金については、最低の単位が『朱』、4朱で『1分』、4分で1両という4進法でした。
 銀は重さの単位『匁(もんめ)』で表現され、公定レートは金1両=銀60匁でした。ただし実効レートは金1両=銀55〜65匁で変動していたようです。
 銭は『文(もん)』という単位で、公定レートは金1両=銭4000文。しかし、こちらも変動し、特に18世紀後半からは急激に下落して6000文を超えるようになりました。公定レートも1842年には金1両=6500文に引き下げられています。
 これらの通貨が現代の価値にしてどのくらいになるか。品目によっても異なり、また当時のレートの変動と物価上昇がありますので、一概に言えませんが、初期で金1両=10万円強、後期で金1両=8万円くらいと考えれば当たらずと言えども遠からずではないでしょうか。

6.暦
江戸時代の1ヶ月は29日と30日が交互に繰り返されました。したがって、年間354日、現在の365日には11日も足りませんから、3年に1度くらいは閏月を設けていました。
1日の時刻の刻み方も現在とかなり違い、夜明け⇔日暮れをそれぞれ6等分したものを『一つ』という単位にしていました。なので『一つ』は夏と冬で、また日中と夜で長さがかなり違います。日中の『一つ』という長さの時間は夏至のときが一番長く冬至のときが一番短くなります。
『秋の夜長』なんていう表現がありますが、実際に長かったのです。
春分・秋分の日は、昼夜の長さが同じなので、その時刻を例として示すと次のようになります。

現代   00時 02時 04時  06時  08時 10時 12時
江戸時代 九つ 八つ 七つ 明六つ  五つ 四つ 九つ

現代   12時 14時 16時  18時  20時 22時 24時
江戸時代 九つ 八つ 七つ 暮六つ  五つ  四つ 九つ

(現代は明石標準時)

 時刻はお寺の鐘で知らせます。九つとは9つゴーンとなるから、そう言われると考えてもいいでしょう。9から1個ずつ減って4つまで来ると次はまた9個になりますね。では、3、2、1はどうかというと、6つに分けた一つずつをさらに4分割し、1個、2個、3個、つまり春分・秋分の日なら30分間隔で、鐘が鳴りました。明け六つの鐘が6個鳴ったら、次にゴーンと1個なると6時半、2個なら7時、3個で7時半、次に鐘が5つ鳴って8時ということになります。
 この数え方が現代に残っているものとして『おやつ』があります。午後2時が八つの鐘で、八つ半が午後3時、一服入れておやつでも食べましょう、という時刻になるわけです。
 なお、時刻の表示は十二支をこれに当てはめて表現することもありました(『草木も眠る丑三つ時』なんていう表現です)。丑が夜中の01時に始まって、2時間続く、その2時間を30分ごとに1つ、2つ、3つと鐘がなります。そうすると『丑三つ時』とは何時何分になるのでしょうか、ご自身で当てはめてみてください。
 十二支の数え方が現代に残っているものとして、午前11時〜午後1時までが午(うま)の刻、その真中が正午で、それ以前が午前、それ以後が午後ということになります。

《まとめ》
 改めて調べてみて、いろいろ知らなかったことや誤解していたことがあることに驚きました。学校で習った日本の歴史というのはなんだったのか、ちょっと考えさせられました。
 そこで次回は、学校で習った間違った江戸時代観に焦点をあててみたいと思います。

その2へ続く


この記事にお便りを。



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