特集:格差社会《おまけ》

2007.07.22
担当:tr

 おまけの今回は、格差のことを調べながら感じたことを書きます。

 まず、
雇用格差について
 筆者のまわりにも正規社員と非正規社員がいます。ひとことで言うと、非正規社員には優しくて素直な人々が多いのに比べ、正規社員は猫かぶりというか、相手によって態度を使い分けるのが上手な人が多いと感じます。企業社会全体がそのように変貌しつつあるのかもしれません。まあ、筆者のまわりがたまたまなのかもしれませんが。
 もう一つ、正規社員はとても長く仕事をしています。深夜残業・休日出勤当たり前です。その結果、身体や心を病んでいく人もかなりいます。ホワイトカラー・エグゼンプションというのを言い出した人の現実離れした感覚には驚くばかりです。
 正規社員の長時間労働は、正規・非正規の間に格差があることのなによりの証左だと筆者は思います。正規社員の座から落ちこぼれないために、とにかくできることは、たくさん働いています、というところを見せることなのです。冒頭に言いました『そう見せる』というのがここでも登場します。能力とか努力を評価する、というのがどうも歪んできているようです。
 今日では多くの企業が年功序列型人事を廃棄あるいは修正していますが、これに先鞭をつけた企業では米国の人事評価制度丸写しの成果主義を導入したところもありました。これはうまくいくはずがありませんでした。
 筆者が見る限り、成果主義を含んだ人事評価には重大なシステム上の欠陥があると思います。それは組織設計の緻密さの問題です。米国では、例えば、隣席の不在者の電話が鳴っても代理応答しない、というくらい個々人のすべき仕事が明確に定められています。一人一人は自分に定められた職務をきっちり果たし、自分に割り振られていない仕事には決して手を出さない、それが組織として成果になるかならないかはマネージャーの責任、と言い切れるくらい組織と職務が明確に規定されている。一方、日本の企業でそこまで緻密に組織設計されているところは少ないでしょう。だれもやらない仕事を隙間で拾ってカバーし合うのは当たり前、といまだに思われています。そしてみんながマネージャーのつもりになって考えろ、とも。この発想自体が成果主義になじまない。むしろそんなところはタダ乗りしてしまう人の評価が高くなったりしがちになります。

 成果主義に限らず、フェアな競争と言いながら、タダ乗りや抜け駆けが得をするのが今日の日本社会で、素直な人や優しい人に不利になるようなトレンドがあるように思えてなりません。

 平成17年に内閣府が実施した『社会意識に関する世論調査』(配布数10,000、有効回答6,586)に次のような結果が載っています。
『地位・報酬を得るのが望ましい』と『現実はどうか』を聞いたものです。
《地位・報酬を得るのが》
           望ましい  現実は
努力した人      60.0% → 21.5%
実績を上げた人    27.6% → 51.0%
(詳細は
別紙参照)
 『努力したか否かに関らず実績を上げた人を評価』するのが成果主義の原点であることからすれば、このアンケート調査で、『地位・報酬を得るのが望ましいのは努力した人』という勘違いをしている人が60%もいることになります。が、『努力に報いる』のが日本型の評価の伝統で、しかも前述した組織設計の問題も未解決だとすれば、このままでいくと企業社会はどんどんアンフェアで納得のいかない世界になっていくのではないか、と筆者には思えます。

 ニートということばが登場した時、世間の反応は結構冷たかったように思います。『泣き言言ってないで働け、仕事はいくらでもあるじゃないか』ということでしょう。確かに、親に甘えていつまでも巣立ちしない若者もいたのではありましょうが、本人の責任と言い切れない状況もその後明らかになりました。それは、バブル後の不況時代に企業が新卒の採用を極端にしぼり込んだため、何社に応募しても理由も開示されることなく『貴意に添えぬ』という不採用通知を受け取り続けている間に、意欲を殺がれ、自信をなくしていく若者もたくさんいたということでした。また、その一方で縁故で一流企業に入社する人々もいました。筆者の所属していた企業でも、『縁故以外一切不採用』という期間が何年も続きました。

 筆者はずっと不思議に思い続けてきたのですが、企業はなぜ、景気が悪くなると新卒採用を減らすのでしょうか。短期的にもほとんどプラスの要素がない一方で、長期的にはその会社自身ならびに社会全体に与えるマイナスのインパクトがとても大きいと思えてなりません。
 あるいは中途採用への門戸にしても相変わらず決して広いとは言えないのが現状です。日本企業における雇用の硬直性というのは一体どうすれば快方に向かうのか、筆者にもあまり良い知恵は浮かびませんが、この硬直性には全く益がないことは明らかで、人事政策を担う人々の不見識だけは間違いなく指摘できるでしょう。と言うか、見識を問われるレベルの人事政策と言う場合、政策など日本の企業社会にあったのでしょうか。人事の責任者はいても人事政策の責任者はいなかった、江戸時代のお店(たな)の制度をそのまま近代資本主義における企業組織に踏襲し、それが立ち行かなくなると、安易にアメリカ型の成果主義を真似し、それが不具合を生じると適当に修正する。
 右肩上がりの経済の下で埋没していた、経済合理性だけで割り切れない『人』の問題が、いよいよ逃げ隠れできない状況になってきた、と筆者は考えます。

地域格差について
 タダでさえ可住面積の少ない日本の国土、大都市では常に土地が投機の手段になって人が群がる一方で、田舎では使える土地が草茫々で放置されている。これは国富の重大な損失だと思います。
 解決の方向性は2つ、一極集中の解消と第一次産業ビジョンではないでしょうか。
 一極集中については、筆者はそれほど複雑ではないと思っています。天皇には京都にお帰りいただき、政治・行政は遷都する。テレビのキー局には大阪に移転していただきましょう、今テレビを席巻しているのは関西出身の方々ですから。こうすれば、その他の諸機能も東京にいる意味がなくなりますから、徐々に分散していくのは間違いありません。
 抵抗勢力は大都市の既得権。さしずめ、東京都の知事さんなどは、『旧社会の既得権を背負ったやり手』という意味で井伊直弼のような人ですね。でも怖いですね、東京都民の皆さん分かっていますか?
 もう一つは、農林・牧畜・酪農・水産業におけるビジョンの創出です。わずか40年あまりの間に日本の食糧自給率が70%から40%まで減少した、というのは前回紹介しましたが、ではどんな形が望ましいのか。可住面積あたりの人口密度が飛び抜けて高い工業国、という他の先進国に見られない我が国の特性を考えると、ことはそんなに単純ではありません。ビジョンはだれも提示してくれていない、競争力のないものを実弾で補助し続けるという失敗を積み重ねてきた農林水産行政・政治には期待できません。
 日本の農業に国際競争力が付けられるのか、をまず考えなければなりません。企業の農業参入の道は着々と整えられつつありますが、参入する企業にはとんでもないやつもいる、ということは介護ビジネスで苦い思いをしたばかりです。
 創意工夫で競争に強い作物作りに成功している例はたくさんあります。夕張メロンなど、メロン農家に焦点を絞っていれば夕張市は破綻しなかっただろうと言われています。ただし、その多くがいかに高く売れる作物をつくるか、という高級作物志向です。私たちは一箱1万円のさくらんぼや一粒1,000円の梅干だけでは生きていけません。生存を確保するために必要な作物でどのようにして競争力をつけるか、が問われるところでしょう。そこに活路がないなら自給率アップはあきらめ、次善の策に転換しなければなりません。目処の立たない『べき』論ばかりしていても、いたずらに公的資金が無駄遣いされるだけです、過去何十年かのように。
 酪農・牧畜でも状況は同じです。水産は少し違いますが、食えないビジネスという点は変わりません。このとても難しい問題を、『自給率が低いのは大変だ』といった矮小化をせずに考える必要があると思います。

観光について
 旧態依然とした観光地が低迷する中で、古くは湯布院、新しくは旭山動物園など、人を元気にする成功例がいくつも見られるようになりました。他人(政治・行政とか)に頼ったり真似をするのではなく、それぞれの地域が当事者意識を持って知恵を出し合えばきっといいことができる、という心強い証拠があるのです。筆者は昨年信州の別所温泉というところを訪ねましたが、ここには『信州の湯布院』のような器を感じました。その条件の良さに、地元の人々は残念ながら気付いていないようでした。
 ちょっと瞬きすれば気付くような、それぞれの個性で観光客を呼べる下地は日本中にあると思います。
 ニーズそっちのけで、補助金の費消ばかりを考える政治・行政には引っ込んでもらいましょう。リゾート法などナンセンスです。あるいは勝手に法律を変えるのも結局あだになります。温泉法が改正された結果、沸かさなければ入れないような温度でも温泉と称していい、なんてことになって、混乱が起きました。当たり前です。ましてやこれによってそこら中が温泉だらけになった結果、温泉という資源の価値が下がってしまいました。
 政治・行政は余計なことをしなくていい。地域から要請されたときだけ動く。必要なとき彼らを動かすのは、地域の熱意と創意工夫だと思います。乱開発や大きな箱物作りをしないで、磨けば光る観光資源はこの国にはまだまだたくさんあります。

おわりに
 格差社会について調べているなかで、最も怖いと思ったのは、どこで何が起きているのか、見えない、伝わって来ない、という点でした。
 過去60年余りの間、日本は『なんだかんだ言っても、昨日より今日のほうが暮らしやすくなっているのは確かだよね』という安心感に支えられていました。今、それが怪しくなっています。論争のようなギスギスした場面を避け、モノゴトをいつもことなかれのほうに考える、というキレイ事では、社会も、あなた自身を取り巻く環境も、良い方向には向かわない時代がやってきたように思えてなりません。



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