津田梅子の性格を生い立ちから調査

2019年4月現在、日本の5千円札の肖像画は、樋口一葉ですが、今後、数年をめどに、5千円札の肖像画が「津田梅子」に切り替わるという発表がありました

津田梅子は、日本の教育者であることは、ご存知かと思います。日本における女子教育の先駆者とも言われ、非常に興味深い人物であります。

その津田梅子の性格や一生はどんなものだったのかを調査してまいりました。

津田梅子の生い立ち

津田梅子は、東京都新宿区の生まれ

幼少時の梅子は、手習いや踊りを学び、父の農園の手伝いもしています

6歳の時(明治4年)、渡米。梅子は英語やピアノを学び、他には、ラテン語、フランス語、英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学んでいます。そして、明治15年11月に帰国。

幼少のころから、長い留学生活を送っていたので、日本語能力が逆に乏しくなってしまい通訳が必要だったという梅子は、帰国後、下田歌子が開く桃夭女塾(とうようじょじゅく)にて、英語の教師としての道を歩んでいきます。

※桃夭女塾は、今の実践女子大学のことです

日本語の能力が乏しかった梅子は、歌子に国語や習字を教えてもらい、歌子は、逆に梅子に英語を教えてもらいながら、ともに教師として学んでいたということです。

24歳の時には、再度渡米し、生物学を学び、3年後に帰国。

あらためて、女子教育を広める大切さを実感したとのことで、自宅で女学生を預かるなどして、積極的に女子教育の支援を行っていきます。

 

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津田梅子の性格

幼少から女学校時代を見てみると、ずっと勉強漬けだったのかなぁと思います。

がり勉みたいなイメージがつきまといますが、単に私は、

・好奇心が旺盛

という性格があったんだと思いますよ。嫌だったら、やってられないもん笑

好きこそものの上手なれということわざがありますが、何かを学ぶことが、梅子にとっては新鮮で楽しかったのではないでしょうか?

教師時代の梅子は、鬼教師!だったそうですよ笑

その講義の厳しさゆえ、逃げ出す生徒がいたそうです。というのは、当時、女子教育とは花嫁修業が主流で、英文学を教えるなんてことは、まぁ、そうそうあることではなく、まったく新しい勉強だったはずなんです。

梅子も英文学を一人でも多くの人に知ってもらいたいという思いがあったからこそ、厳しく接していたと思うんですが、単に勉学だけではなく、人間としても成長してほしいという願いがあったからではないでしょうか?

しかし、それも学問をもっと日本に広めるためであり、もともとの性格は鬼ではないんですよね^^;

なので、

・勉強家であり、努力家

・学問に対しては厳しい人

ということが言えそうです。

あとは、病に倒れるまで、アメリカでスピーチをしたり、もちろん英文学を教える先生としても活躍され、64歳でその生涯を閉じることになりました。

子供のころから亡くなるまで、ずっと勉強と教育。だけど、女性の社会進出がこうして、推進されるようになったのも、また、女は家庭を守るだけがすべてではない。勉強して、知識を身に付け働きに出ることも人生なんです。という選択肢を世の女性に与えてくださった偉大な教育者ではないでしょうかね~。

では、最後に津田梅子のエピソードをご覧いただきましょう。

津田梅子エピソード

・日本の結婚観が嫌で、縁談はすべて断っていたそうですね。なので、お亡くなりになるまで、一生独身を貫いたそうですよ。

・日本では、玄関で靴を脱ぐのが当たり前になっていますが、アメリカ生活が長かったために、靴を脱ぐのが面倒だったようで、土足生活だったというお話も。。

・他人に何か言われても、豪快に笑い飛ばしていたそうで、アメリカ生活が長かったので、性格も豪快。男っぽい感じだったのかもしれませんね。

ということで、梅子の性格に付け加えるのなら、3つ目のエピソードから

・豪快で明るい性格

とも言えそうです。